大阪医科薬科大学硬式庭球部OB会

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沿革

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硬式庭球部の歴史

硬式庭球部の歴史

 硬式庭球部の硬式庭球節は、西医体で、四四年度、四五年度女子団体優勝、五一年度・五二年度男子団体優勝、五三年度準優勝と西日本医学部での実力を誇るに至っているが、その歴史は比較的若く、削節以来二十数年を経たに過ぎない。
 昭和三十年、学七の小山武浚、青山宏、西山正義の三名により同好会としてグループが結成され、翌三一年四月に、九の黒田克彦、納田嘉久、公文康が加わり、内科の柏木胖助教授に部長を、精神科の大川治現部長にコーチをお願いし、計八名のスタッフで正式に硬式庭球部として発足した。当時本学にコートがなく、主に近くの住友金属社宅のコートを借りて、ここを拠点とし、練習コートを探し求め、京都三条城、神戸の公文病院コート等、方々のコートを借り歩いた。また、部員数も十名ばかりとあっで、ダブルスペアを組むにあたっでも悩みはつきなかった。当時上り最大の大会は西医体で、西日本の医学部は一斉に一週間の体育週間をとり、開催されていた。 硬式庭球の参加はニ三校、試合は単三、複二の五試合で、本学の初参加は、二回戦で岡山大に敗れた。しかしこの年より始まった個人戦では、公文が優勝した。対外定開戦も神戸医科大学の他、大阪薬大、東京医大と次第に増えていった。
 その後部員は、教養学部の増設に伴って漸増し、現在四四名に至る大世帯となっている。その間、西医体は三六年より単六、複三の九試合となり、参加校も四十校に至っている。また、三七年に西医体も単二、複一の女子部が発足し、学十一の辰見吉夫は学十四の大畑垂穂、学十六の木村博子を加えて女子部を結成した。この間、テニスコートは相変らず借り物の一面のみで、部員の増加に伴って練習不足は次第に深刻となり、三九年、学十四の八幡雅志等の強力な働きかけで、学生部長故杉本好一教授の御支援を得て、本学グラウンドに硬式庭球部、軟式庭球部共用のテニスコートニ面が作られた。

歴代部長

歴代部長

柏木 胖
昭和31年〜昭和38年
大川 治
昭和38年〜 昭和55年
榊原茂樹
昭和55年〜昭和60年
岩崎尚彦
昭和60年〜平成11年
竹中 洋
平成11年〜平成14年
玉井 浩
平成14年〜平成30年
寺田 哲也
平成30年〜現在

OB会会長

OB会会長

大川 治
昭和50年〜昭和62年
公文 康
昭和63年〜平成9年
辰見宣夫
平成10年〜平成23年
林 哲也
平成24年〜現在

歴代主将

歴代主将

昭31卒
小山武俊
昭32卒
公文 康
昭32卒
公文 康
昭33卒
公文 康
昭34卒
公文 康
昭35卒
公文 康
昭36卒
細井俊一
昭37卒
辰見宣夫
昭38卒
丸山俊郎
昭39卒
田中義之
昭40卒
八幡雅志
昭41卒
安藤忠嗣
昭42卒
日下孝明
昭43卒
恒川恵治
昭44卒
飯田 稔
昭45卒
星加照毅
昭46卒
安藤嗣彦
昭47卒
横山和敏
昭48卒
須田秩史
昭49卒
河合 哲
昭50卒
堀 信治
昭51卒
前田雅道
昭52卒
松永光史
昭53卒
福本仁志
昭54卒
玉井 浩
昭55卒
浪方典宏
昭56卒
林 哲也
昭57卒
井上了豪
昭58卒
葛谷雅文
昭59卒
多根一之
昭60卒
大坂芳明
昭61卒
河本政一
昭62卒
綿谷 卓
昭63卒
佐野一成
平1卒
木原信一郎
平2卒
高井健司
平3卒
松田 浩
平4卒
寺田哲也
平5卒
佐分利良公
平6卒
桃井健人
平7卒
森田英晃
平8卒
吉中亮二
平9卒
西村東人
平10卒
奥田信昭
平11卒
金 禹瓉
平12卒
藤村憲宗
平13卒
東野昌子
平14卒
瀧本真也
平15卒
横山和武
平16卒
大森真介
平17卒
北口和彦
平18卒
鶴原泰子
平19卒
砂田真澄
平20卒
松本和寛
平21卒
藤井健一郎
平22卒
連 翔太
平23卒
女子: 窪田(原)美紀
平24卒
男子: 西岡 伸
女子: 碇 絢菜
平25卒
男子: 仲河 恒志
女子: 三輪 晶子
平26卒
男子: 神部 浩輔
女子: 中山 小百合
看護: 坂下(青山) 佳澄
平27卒
男子: 芹澤 龍太郎
女子: 滝口 直
看護: 植田 紗弓
平28卒
男子: 水谷 亮
女子: 井上 汐里
看護: 猪俣 奈那子
平29卒
男子: 佐野 庸平
看護: 山口 笑莉